現象学的美人論 (上) | 煩悩無計画学 Ⅰ

現象学的美人論 (上)

先日たけぞーさん(a.k.a.モテ市くん)も日記で扱っていましたが、



「美人とは何ぞや?」



というテーマについて、自分も若干ながら思う所があるので、筆をおろし、いや、執ります。


さて、まず、この美人とは何ぞや?というテーマに関する既往の研究って結構あるようです。

(参照:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022640952/249-3451966-5058737



ただ自分は一切こういう本を読んでいません。


よって、上野千鶴子さんに見つかったらグウの音も出ないくらい糾弾されるような、不適切な言葉を多数使ってやろうホトトギスというスタンスで、無茶な論理を展開します。

途中ヤワラちゃんに関する不適切な表現も出てきますが、是非スルーして下さい。





第一章:美人の定義

まず、基本的な自分のスタンスを書きます。

自分の意見としては、個体レベルでの美人と、集団レベルでの美人を分けて考えた方が良いと思います。


理由は以下の通り。(たけぞーさんの日記を受けてのコメントより抜粋)

まず、顔面についてのストライクゾーンというのは個人によって結構差があったりしますよね。

これから考えるに、人間個体の本能的な部分では、美人というものの定義は非常に曖昧だと言えると思います。
つまり、普遍的に成立するような、絶対的な美人を規定するような指標は存在しないと考えられます。

個体レベルの「ウホッ、イイ顔・・・」というビギニングを左右するのは、強いて言えば目や口や鼻などのパーツのプロポーションの問題だけでしょう。

コレを証明するに良い例があります。


谷夫妻です。つまりヤワラちゃんです。UMA認定も近いと言われている彼女です。


はっきり言って、大多数の人は彼女を美人とは思わないでしょう。
しかし、人間という種の世界は上手く出来ています。その種が保存されるために、何十億分の一の確立かで、彼女にホの字になってしまうような男性(変態)も、確実に存在するのです。
これは種の保存の論理に矛盾しないどころか極めて納得のいく論理だと思います。


一方、「一般に美人とはなんぞや?」のレベル、つまり、集団レベルでの話しになってくると、結局はたけぞーさんの言うように、ある時代・場所ごとのコミュニティの中での情報・評価の集積が大きな意味を持つのではないかと思います。

何故なら、情報がフラットに共有されていない場所や時代においては、極めて多様な「美人」が存在するからです。

例えば、昔のクレオパトラとか紫式部。
彼女らについて、「あの人は美人よ」という情報が共有されている時代・コミュニティにおいては「美人」でありますが、そこから離れて、違う時代・コミュニティに属する我々にとっては美人とは認識され得ませんよね。


従って、「第一章:美人の定義」の結論は以下のようになります。


結論:個体レベルでの美人は個体ごとの萌えジーに依存
   集団レベルでの美人はコミュニティの中での情報に依存


以上、現象学的美人論っぽいうんこ論理でした。



しかしここで、一つの疑問が浮上している事に気付きます。
個体レベルでの美人の定義はかくも多様であるのに、それらが一体どのように統合された上で、集団レベルでの「情報としての美人」が形成されているのだろうか、という疑問です。


コレについては、
第二章:引き算の美人 ~抽象化の果てに~

に詳しく書くつもりです。

でも書かない可能性87.6パーセントです。

マンドクセーので。



以下次回予告。


前回の第一章により浮かび上がった、集団レベルでの美人形成のプロセスの謎・・・。
この解析不可能とも思える難題に、一人の萌えジー研究者が立ち上がった!
果たして彼の根拠のない論理に如何ほどの反感が募るのだろうか?

乞うご期待。

期待されずとも無理やり書きますが。




タイトル原題:現象学的建築論 、増田友也のキーワード